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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

質時間回帰2

ぶっ壊れいく欧米1~239~240~241


さて、
世界中の金融と経済がますます「ふにゃふにゃ」になってきている。

まさに、「ふにゃにゃ」である。

どう手をつけても、どうにもならない、手に負えない、といった状況が酷くなってきているのである。

ぐちゃぐちゃの底無し沼に載った世界中の金融と経済、砂上の楼閣と化していく世界中の金融と経済、といったところだろう。

そういった状況は、世界中の人々のマイナスの質時間に関連している。

質の科学でいうとそうなる。

つまり、世界中の人々が、平均からいっていい生活をし続けてきたので、人々の意識の主体についた変化に、マイナスのものが膨大に増えてきている、それに比例して、そういった状況が悪くなってきている、と理解されるのである。

よって、そういった状態が改善されるには、世界中の人々のマイナスの質時間が大きく減ることが必要となる。

それなしでの改善は、一時的なものに終わるどころか、世界中の人々のマイナスの質時間をさらに増大させることになっていく。

国々によって、その国民が抱えるマイナスの質時間の質と量には、かなりの違いがある。

したがって、国によって、回復のスピードや状況が大きく異なっていくだろう。

それは、任意の国の質時間の状態を観察するバロメーターといえるのかもしれない。

ただし、質の科学の検証はまだ不完全であるが。




大きく話しは変わって;
人類はなにを目的に生きていっているのであろう。

私の場合は、質の科学の証明強化とその検証、世界哲学の完全化、そしてそれらを世に問うこと、に今一番興味がある。

もちろん、そういったものは人によって、それぞれ異なっているし、同じ人でも時や時期によって変わっていくものも多い。

国によってもその傾向は異なっているだろうし、地域によっても違うだろう。

そういった個人的なことはさておいて、人類全体の目的・目標のようなものはあるのだろうか。

心理学者ユングの説いた集合無意識といったような何かがほんとにあって、人類全体の目的・目標のようなものを形づくっている、そういったことがほんとにあるのだろうか。

しかも、それはひとつにまとまってはおらず、いくつにも分裂している、などといったことがあるのだろうか。

その中には、激烈な対立や衝突もある、といったことがあるのだろうか。

世界情勢をみれば、そうなっているような印象を受けるのだが。

そこには仮説は打ち立てられるが、検証はなかなかうまくいかないだろう。

そこのところを解明して、激烈な対立や衝突を避けることはできないものだろうか。

仮説になるものの、質の科学では、そこらの工学的仮説を建てられそうなのであるが、残念ながらまだここに記すような段階ではない。

それも文字どおり「仮説」であって、検証が必要である。

その検証法のひとつとして、歴史を見渡して行うというのもあるだろう。

歴史を見渡した限りでは、その仮説はいい線いってるのではないか、と思えてくる。

心理学者ユングの説いた集合無意識についても、そういった方面からの検証ができるのかもしれない。


訪れる方々が、指向するところが一致する訪問者の方々だけであったら、その線で書いていけばいいのだが、そうでない場合、「そんなナンセンスな!」ということにできるだけならないように心がけるのが洗練された在り方というものだろう。

とはいえ、自由に書いていきたい。




さて、ますます、世界の金融と経済の状況は衰退と混乱を極めてきている。

日本の周りの国々も大変な事態を迎えている。

その中で、日本は最も状況がいい。

それが実態なので、日本人はその状態を有効に活用できるだろう。

なんとか現状を打開して社会全体をよりよくすべく、各国も社会的政策を大胆に打ち出してきている。

日本のその例外ではない。

質の科学でいうと、社会・共産主義が行き詰まり崩壊していった時点で、対を失った資本主義は不安定になっていき、やがて崩壊に至るだろう、という予想が立っていたのだが、資本主義の末期に質時間回帰によって、社会主義的政策が必要になる、というところにまでは予想が立たなかった。社会・共産主義国家の資本主義的システムの取り入れについても同じことがいえる。そういう事態に至った現時点(あるいは過去の時点)で、そういった事実は質の科学の正しさの証拠となる、ともいえるだろう。





さて、質の科学においては、そういった方面のすべての可能性を追求していき、ありうる、可能性、モデル、定義、仮説、解説、などをすべて列べあげ、それを検証にかけ、その中から現実を記述しているものを選び出す、という姿勢にある。

その一環として、「心脳の工学的構造」といった分野をも切り開いてきているのだが、
私がこういった論を展開できるようになったのは、あらゆる方面に手を広げてきたからだと思う。

中でも特筆すべきは、宗教関係の本たちもおおいに参考になったことである。

そういった方面を毛嫌いしていては、たいした成果はあがらないだろう。

ただし、そういったもので、できのいいものは、既に知性的な空間に存在していたものを私が探しだし拾い上げただけである。

ついでに参考までにいうと、宗教というのは、人類の歴史において最も重大な分野でありつづけてきた。

それを否定するということは、人類ひいては自分を否定するということにほかならない。



宗教に関連して次のようなことを考えてみよう。

霊魂という言葉(単語)は、世界中の言語にある。

その概念はどこから来たのだろうか。

人類の単なる願望・希望からか。

人類の幻からか。

人類の集団催眠からか。

幻とか催眠とはなにか。

さまざまな文献・書物にある、そういったことに関する膨大な記録は、いったい何なのか。

それらを、ナンセンスだ! と決めつけていいのだろうか。

ナンセンスと断定することこそナンセンスではないのか。

それらを否定することは、人類の歴史において最も重大な分野でありつづけてきた宗教をも否定することであるし、人類ひいては自分をも否定するということにほかならない、という結論が妥当だと思うがいかがなものだろう。

ともあれ、世界中の言語にある「霊魂」に関する研究は絶対に必要である。





さて、
なにもかも、時間とともに変化していく。

まさに“諸行無常”である。

その中で唯一変化しないものがある。

質の法則と質時間回帰則である。

(科学的法則はどうか? 変化していく可能性はある。たとえば、グリセリンはある年までは結晶化しなかった。それがその年から結晶化するようになった。そういう例がある。うろ覚えですが。
宇宙が膨張していったり収縮していったりすると、そういったさまざまな法則も変化していくだろう。ただし、その変化を支配する法則はあるだろうが)

投資などについても、以前推奨されたもので多くの人が大損するようになり、正反対のやり方が求められるようになるなど、変化が激しい。

それは、その中の主流・大半の人々がマイナスの質時間を大きく積み上げたからである、と解釈できる。

正反対になった例を挙げたが、そういうのを質時間回帰という。

そういった質時間回帰をうまく捉え、そこに乗ることができるようになると、さて、さまざまなことにおいて、快調に進んでいくことができるようになる可能性はある。

しかし、そのばあいでも、マイナスの質時間を限度以上積み上げてしまうと、墜落・沈没してしまうことになっていくだろう。

以上の部分は易経の説く内容と極めてよく似ている。

ただし、異なる概念をそれぞれがもっている、という面もある。





さて、先に、日本語の構造について少し触れたので、さらに日本語の特性のひとつについて述べてみよう。

他国の言語については少ししか知らないので、他にはないと断定はしないが、日本語においては、人称代名詞の劣化と多産が激しい。

それが日本語、ひいては日本人の心性の特徴のひとつを現しているのではないか。

それは、一人称と二人称においてのことである。

たとえば「お前」という二人称は、御前(おんまえ)ということから始まっており、それは、「私の御前におられる尊い御方」といったような意味合いだったはずだ。

直接名指ししない、最上級の丁寧さをもっている。

それがどうだろう、今では、非常に親しい間柄でしか用いられないものになっており、もっとも乱暴な表現のひとつになり下がってしまっている。

(そういう現象は質時間回帰と呼べるが、外国語でそういったことが起こらないとするならば、どちらかが特殊だということになるのだろうか。それとも、両者とも説明がつくのだろうか。
海外から入ってくる人の数が多い国は、そういったことが起こりにくいという可能性はある、と筆者は感じる)

貴様、もそうだし、その他にもそういったのが多い。

さらに、一人称と二人称の混乱化もある。

手前から始まった、てまえ、が、てめえ、となって二人称になったり、我が、わい、となって、さらに二人称にしているケースもある。

なぜ、日本ではこういった変化や混乱が起こるのだろう。

それは、まず、日本人は基本的に相手を二人称で呼ぶことに抵抗がある、というところから考えてみよう、という気になる。

~さん、とか、先生、とか、大将とか、絶対的というか、相対化してないものというか、そういった呼び方を日本人は好む。

代名詞で呼ぶというのは、失礼だ、という感覚もあるのかもしれない。

少し外国のことをみてみよう。

エイゴ圏でも、子供が家族の前で、おかあさんのことを彼女と呼ぶのはいけないこととされているようである。

そういった例外はあるが、エイゴでは、人称代名詞はすっきりと決まっており、すっきりと使われるようである。


日本語に戻る。

一人称のばあいは、自分のことであるから、礼を失する程度は二人称よりは低いのだろうが、それでも、時と場所に応じて使い分けることが要求される。

二人称に至っては、日本人はすっきりとはなかなか使えない。

そこに横たわっているのは、次のようなことだろうか。


日本人は、対話においては、内容や論理よりも、感じ・情感・感触を優先する。

日本人は、はにかみ屋である。

日本人は喧嘩を好まない。

日本人はできるなら、相手を傷つけたくないと思っている。

日本人の心は波動性が高く、揺れやすい。

注)そういう傾向がほかの国々の人達よりも平均して大きい、という意味であり、さらに、同じ日本人でも個人差がある。


さらに、日本人には、質時間回帰則を先天的に知っているようなところがある。

それは、いつか自分に返ってくるから、他人に対してあまり厳しくは当たらない、という心の傾向につながっているのではないだろうか。


日本語における人称代名詞の特殊性などを、以上のように分析してみた。

その分析に筆者は自信があるわけではないが、そういった特性は、日本人が外国人に好かれる性質の元となっているのではないか。

もちろん、その特性は、ヘタをするとナメられる結果をもたらすこともあるだろう。

これからの世界・時代においては、世界中の国々が、そういった日本人の特性を心して立ててくれないと、行き詰まっていくのではないだろうか。

立ててくれないと、日本人のその性質からして、日本人は引っ込んでいくのはまちがいないだろう。

そういった日本人の心性をもつ人々でないと、世界は救えないのではないだろうか。


日本人は世界に対して大きな不満と恨みを抱えている。

それは戦前から戦後にかけての世界的スケールのものだ。

そのうち日本人は怒りを爆発させるだろう。


一方日本人は、世界に貢献したいという欲求ももっている。

それは他の国々には相対的に見られにくいものである、といえる。



他の国々の首脳たちは自分を汚すようなことをやって、つまり日本を恫喝したり陥れたりして、自国や自分の利益をはかる傾向が日本人よりもはるかに大きい。

しかし、そういったことを為すと、その本人の意識の主体にマイナスの質時間が大きく付くのである。

質の科学でいうとそうなる。

そのマイナスの質時間が、その本人とその国に質時間回帰を与えることになる。

つまり、そのマイナスの質時間が、その本人とその国を地獄に叩き込むことになるということである。

その本人とその国が、その本人とその国に質時間回帰を与えるのである。

質の科学でいうとそうなる。



そこで、他の国々の首脳たちは、今までのような姑息な手段ではなく、もっとおおらかなやり方で世界を救っていくよう心がけて欲しいものである。

日本の戦後の軌跡を見れば、紛争解決に武力を用いないという御旗を掲げ、援助などで世界に貢献してきたといえる。

歴史を振り返ってみれば、日本のような国はどこにもなかった、といえるだろう。

どんな国でもそれ以上のことはできない。

ところがどの国も日本の不戦の決意を見習わず、軍備増強に励んできている。

そういった在り方は、日本に憲法を改正して戦争できるようにしろ、と押しつけているに等しい。

日本人は今まで耐えに耐えてきた。

先の大戦によって、結果としてアジアは欧米から独立し、それがアフリカの独立へと至り、アメリカの公民権運動にもつながっていった、という歴史的解釈を否定する人は少数派である、というよりいないはずであるが、そんな主張は抹殺されたままである。

ハンチントン氏もそういった解釈をしていると思う(ハンチントンはたしか歴史学者で、文明の衝突とかいう論をまとめた人だったと思うが、うろ覚えだし、少ししか知らないので、間違っていたら訂正します)。

そういったこともある中で、日本人は耐え続けてきた。

しかし、ものには限度というものがある。

日本人のその忍耐が、そのうち限界点に達するのではないだろうか。

どんなものにも限界というものがあるのだ。

日本の在り方も質時間回帰していくのである。

つまり、反転して正反対になっていく(それは質時間回帰の一面である。ほかにもいくつも面としての質時間回帰の実質・実態はある)

ただしそれにはあくまでも、他の国々の首脳たちが今までと同じようだと、という条件がつく。


そう考えてくると、他の国々の首脳たちはもっとよく考えて政策を立案し実行していくのが自分と自国と世界のためだということがわかると思う。

たとえばアメリカにはもう、「おれたちゃ世界のリーダーだ」という資格も権利もなくなっているのである。

ことばを換えればアメリカのマイナスの質時間の総量はあまりに膨大すぎるということである。

それは、アメリカのさまざまな実態に表れている。

であるから、アメリカが今までのようなやり方をとっていくと、アメリカも世界も取り返しのつかないことになっていくと予想される。

そこで、アメリカは日本を立て、日本を前面に押し出して世界を救っていくべきなのである。

アメリカは今や謙虚になるべき時であるともいえる。

それは、今までの償いであるとも表現できる。

そうやっていくと、アメリカの莫大なマイナスの質時間の総量も減っていって、アメリカの立ち直りも世界の立ち直りもはやくなっていく。

質の科学の検証はまだまだ不十分であるが、質の科学でいうとそういうことになる。


日本が独自でそういった方向で進んでいくことは、今までの経緯からいって不可能である。

日本もそれをやりたいが、どうしても日本だけではできないということだ。

それは、日本人の受動性の大きさと能動性の不足を示すものではなく、歴史とさまざまな実態からくる、どうしようもないものだ。

「ならば、アメリカだってそんなことはできない、歴史とさまざまな実態からいってどうしようもない」という主張もでてきそうだが、それは成り立たない。

アメリカのマイナスの質時間の総計は桁外れに大きく、日本のそれはかなり小さい。

とんでもないマイナスの質時間を積み上げているアメリカの方がプライドを捨てるべきなのである。

アメリカ・アメリカ人は稼ぐ以上に浪費を重ねてきたし、アメリカは傲慢で強圧的な姿勢で世界中の国々に対してきた。

日本に対しては、その度合が大きすぎる状態が続いてきている。

それによって、アメリカのマイナスの質時間の総和が増大しつづけてきたのである。

多くの国々はそんなアメリカを嫌い憎んできつづけている。

傲慢なアメリカはそんなことには無頓着でありつづけてきている。

ここは質の転換点である。

アメリカやその他の国々のマイナスの質時間が膨大化しすぎたゆえの、質(アメリカやその他の国々の在り方の質)の反転時期である。

(それは質の科学による見解である)。

つまり、アメリカはプライドを捨て、日本を立て、日本が世界を救う外交を行う、その舞台裏の裏方的存在になるべきなのである。

それなら世界の国々は、多くを受け入れるだろう。

しかも、そうでないと世界は崩壊していくだろう。

それ以外のやり方はなさそうである。

アメリカがプライドを捨て、アメリカが軽蔑しつづけてきた日本的心性・特性の下にアメリカがつき、日本が世界を救う外交をなす、そういう時期が到来したのである。

そうなっていくと、質時間回帰則からいって、世界は沈没を避けられるかもしれない。



さて、さまざまな根拠から確定的に予想される、将来の食糧危機についても、考えてみよう。

その根拠はあちこちに記したので、割愛するとして、まず、次のことは必須だと思われる。

食糧としての生産物・獲得物は、できすぎ・とれすぎ、などという事態によって、廃棄されたり、価格が大きく下がったりで、そういった仕事についている方々にとっては不満や心配の要素がたくさんある。

そこで、過剰な物は政府が買い取って、保存食にするのがベストだろう。

缶詰やレトルト、フリーズドドライなど、さまざまな保存方法がある。

冷凍は、コスト、エネルギーの問題や、保存期間などを考えると、あまりよい方法とはいえないかもしれない。

レトルトも賞味期限がかなり短い。

中に酸素がはいっていくからだそうだ。

缶詰も、処理の仕方で超長期保存ができるようになるが、風味・味が落ちるとか、いろいろあるそうだ。

フリーズドドライは、コストが高いだろう。

お米もそういったやり方で保存しておいてもいいのかもしれない。

ちょっと横道にそれたけれど、それを実行すると、価格も安定し、生産者の方々には喜ばれるし、将来の食糧危機対策にはなるし、職場も増えるしで、いい政策なのではないだろうか。

それへの財政支出はみんなが喜び歓迎することまちがいなしである。

民間でできるかどうかは、検討課題だろう。




ここでは、主に、欧米叩きをやっているので、追加で記しておこう。

欧米のように名誉・栄光を受けつづけると、欧米のマイナスの質時間が増大する。

米のように傲慢な態度をとり続けると、米のマイナスの質時間が増える。

米のように強硬な姿勢を続けてくると、米のマイナスの質時間が大きくなる。

米のように稼ぎ以上に消費をしつづけると、米のマイナスの質時間が増大する。

米のように海外から借金をすると、米のマイナスの質時間が増える。

米国のマイナスの質時間が増える、というのは、米国民のひとり一人のマイナスの質時間が増えるということであり、特にそういったことに関わった関係者のマイナスの質時間は激烈に増大していく、ということである。

質の科学でいうとそうなる。

こうやって見てくると、米のマイナスの質時間の総量はとてつもないということがわかる。




世界は崩壊に向かっている。

その根拠はすでに述べた。

その根拠のひとつである、「あのヴァティカンが認め受け入れている、聖母マリアの予言、それは当たりまくってきている」に代表される予言などについて考えてみよう。

当たった予言を目にすると驚く。

実に不思議だ。

当たる予言。

そもそもなぜ予言は当たるのか。

いやこれでは不正確である。

なぜ当たる予言がけっこう多くあるのか、と問おう。

そこに当たるメカニズムがあると仮定する。

そのメカニズムとはなにか。

当然ここからは仮説になる。

あたる予言をなすのは知性的な存在であるといえる。

その知性的な存在とはなにか。

人間が予言をして当たったばあい、その知性的な存在とは、その人の知性(頭脳活動などをまとめた表現です)である。

そこにおいてもなぜ当たるのかわからない。

さらに、人間でない存在が預言という形で予言をしたばあい、その予言と預言をした存在とはなにか、という課題がでてくる。

そこでも、なぜ予言が当たるのかわからないし、そんな不思議な存在があるなどということも信じられない。


しかしながらなんとか考えてみるとまず、預言のメカニズムとして想像できることは次のような実態だろう。

人間が予言をする場合、その潜在意識(かなにか)がスーパーコンピュータのように働いて、たとえば、スパコンが天気の予想をするように、予想が立つ、と考えてみる。

人間でない存在のばあいは、潜在意識のようなもので、もっとすごい超スーパーコンピュータのようなものがそこにあって予想をする、と考えてみる。

しかも、後者は波動性の非常に高い存在であって、空間のエネルギーなどを用いて、波動性の高いさまざまな情報源に共振し(ちょうど音叉のように)、さまざまな情報を得ながら予想をなすので、精度があがると考えてみる。

人間のばあいも、心・潜在意識は波動性の非常に高い存在なので、同じく程度の差はあれ、さまざまな情報を得ながら予想できる可能性がある、と考えてみる。

後者の存在が、人間にそういった情報や予想を与えるケースもある、と考えてみる。


そういった想像は、仮説の元であり、それを仮説に仕上げ、検証する、ということを進めていけばよいわけである。

いつかそれもやってみたい。

そこには心脳問題に関わった内容もありそうである。




その先世界は崩壊に向かう。

世界中が、崩壊を前にして、今おし黙っている、といったところだろうか。


日本の近くの国で、酷い旱魃が起こり、世界の食糧不足が加速していきそうである。

さらにそこでは失業問題が大きくなっており、その国を揺るがしそうだといわれている。

世界中のあちこちで、それに似た事態が起こっている。

その他にも、新しい伝染病が世界中を襲うこと、大きな戦争の勃発、金融崩壊、経済崩壊、天変地異などが世界を叩きのめすこと、などが予想されることは、すでに何度も記した。


人類はいったいどうすればよいのだろうか。

まず、エネルギーや資源などを無駄に消費することを止める、という主張がでてくる。

宗教・宗派対立や国家間対立を穏やかで・よい方向に向けるために、それを実現できる新しい思想か哲学が必要とされているのかもしれない。

その上で、世界中の国々・人々ができるだけ穏やかに、できるだけ協力しあって、それらの改善を図っていくしかない。

そこにおいては、質時間のマイナスの総量が一番少ない上に、お人好しでマヌケな感じの日本を欧米が立てて、進んでいくのもよいやり方ではないだろうか。

お人好しでマヌケな感じの日本と書いたが、日本・日本人は、印象はそうだが、それどころか、とらえどころのない賢者なのである。

そういう感想を筆者はもっている。


注)といってもそれは希望的観測であるかもしれない。ほかにもこのブログの中でそういった筆者の希望がいくらかはいったものがあります。そこにはここのように、後付けをしていないところがあります。

注)さらに、このブログは趣味・ストレス解消ブログなので、意図的に断定的に書いて、ストレス発散をしている個所がたまにあります。そういった部分は客観的書き方がいくらか低下している。そういった観点もあります。
よって、そういった個所用に、ここでまとめて、「そこらは客観性をいくらか放棄した書き方をして、ある程度我的に書いています」と加筆しておきます。




そこで、そういう主張がでてくるわけだ。


ともかく、世界崩壊を防ぎたいというのは、全人類の望みといっていいでしょう。


世界が壊れるのを止めるには、全人類が一致して取り組むべき問題がでてくればいい、という考え方もあるだろう。

SF的なところでは、強力な宇宙人たちが全人類を攻めてくる、とかいったものがある(笑。笑ってはいけないんだが、書かないとバカみたいなので、笑、と書かざるをえない)。

そんな現実がやってくるかどうか、そんなことあるはずないぜ、筆者はまったく知らないな、という立場なので(実際にはどうなのか?)、ここはパスするとして、ほかには何があるだろう。


環境破壊による異常気象もそのひとつになりうるかもしれない。

人類が協力してその方面の解決を図っていこう、と。

しかし、それには正反対のデータや見解・意見が提示されている。

しかも、利害関係が複雑にからみあって、それによってもなかなかうまくいきそうにない。


注意点がある。
そういったことで利益を上げる存在のマイナスの質時間は、普通に稼ぐ存在のそれよりも急激に増大していくと、質の科学は説く。

その存在がかなりなプラスの質時間を積み上げているとすれば、初めはそのプラスの質時間が急速に減少していき、ついで、マイナスの質時間が急激に増えていく、となる。

であるから、そういったことを為す存在は大損をする、ということになる。


ほかに何があるだろう。

オリンピックのような国際的お祭りも、各国のエゴを競わせるという面も大きく、べつにそういったテーマに人類を参加させる力というものをもつとはいえない。

逆に、そういったお祭りは、人類のマイナスの質時間を増大させる要素をもつ。

ただし、ストレス解消、ガス抜きには必要なことではある。


その他に、こういうのもありだろう。
この世界の人間に関わる法則を解き明かして、その結果を知ったら人類が少しは今までより人類の永続に協力的になる、そんな内容であったら、それを人類に提示して、世界崩壊を阻止できるかもしれない、といった可能性である。

質の科学がその候補になれるかどうかはまだわからないが、筆者としてはそこを目指していきたい。

もちろんそれは、哲学でもいい。

そんな夢があっていいのではないでしょうか。



さて、世界の政治情勢が、変化を迎えてきているように感じる。

日本の政治状況もかなりぐらついてきている。

アメリカの世界政策にも変化がでてきている。

世界的にそういう状態に至ってきている。


その先、世界はいったいどう変化していくのだろう。

注)その先、というのは、はっきりとは予想できないが、あと数年以内ぐらいから始まってその先、といったような意味である。

世界は破滅の崖っぷちにたっている。

そこで、というか、しかし、というか、今、世界の国々に変化がでてきているようにみえる。

その変化が、世界の崩壊を食い止めるに至る兆しであることを祈りましょう。


脱線ながら、易経では、そういったことの予想が立つという。

しかしなぜ予想ができるのかまったくわからない。

であるが、その原理を考えてみるに、先に述べた、予言についての考察と同じようなものがでてくるだけである。

その、先に述べた予言とは「あのヴァティカンが認め受け入れている、聖母マリアの予言、それは当たりまくってきている」であって、それによると既に記したように、知らない方がいい内容である。

その予言は当たり続けてきている。

それが外れる可能性はどのくらいあるのだろう。

それが外れる可能性が高いことを祈ろう。



この現代に、国際間では、さまざまなこと・普通ではとても考えられないことなどが行われている、と、さまざまなメルマガたちやサイトたちに書かれている。

それらはもの凄い小説を読んでいるような錯覚を読む者に与える。

それらを読むと、人間という存在は、物質的に満たされても、おかしな欲望が際限なく膨らんでいく動物である、人間という動物は、ある時期に至ると精神的に退化していく存在である、などといった感想をもつ。
もちろん、それは私も含めてのことである。

そういった点を改善していきたいものである。


それには既に述べた、人類がそこを目指したくなるような、その結果、世界の破綻が避けられるような、そういった結果をもたらす、科学か哲学か思想が必要な時期にさしかかっている、といえるのかもしれない。




*兆し*メロメロコーナー&コーヒーブレイク*


時は走りだし

時代は流れだし

新しいなにかが

始まる

そういった兆しが

世界に満ちあふれ

人々が

それに気づく

そんな

そんな流れが

もう始まっている

そう思って

世界を眺めると

そこには

喜びと

嬉しさ

希望と

未来指向

そういったものが

蠢いているのが

見つかるだろう



世界は

蠢動している

まるで

無数の虫たちが

さまざまな昆虫たちが

無邪気に

無心に

食べ物を

あさっているかのように



そこには

人類の希望

地球の優しさ

大自然のふところの深さ

宇宙の夢

神々の知恵

そういったものが

共に響きあって

共に交じりあって


世界交響曲を奏でているかのごとく

とらえどころのない名画を映しているかのごとく

いや

そんな表現は

矮小すぎて

そんな言の葉の飾りでは

心には届かなくて


もう

言葉にはできない在りようを

感じさせ

この世界を

実り豊かな

桃源郷に

している

していく

そう

信じていきたい

そう

感じていきたい






ここで、「こういった方面の研究状況などの報告」をしておきます。


私の論「心脳の工学的構造」の末尾に、「蛇足予想」を付け加えているのだが、それには、8項目ぐらいの根拠がある。

そこには、強烈な根拠もあれば、さほど説得力のない根拠もあるが。

で、今現在も、そういった心脳の工学的構造モデルとそのシステム明細を構築中である。


それは発明とその特許申請書の書き上げと同じ要領でいくしかない、そう考えてみる。


私は発明を数多くやってきたし、特許申請書も三通書き上げている。

アイデアの段階はすごく楽しい。

それを製品化できるところまで詰めていく過程では、実に苦しく大変になっていく(かんたんな発明は別として)。

それを特許申請書にまとめ上げ完成させるのも、のたうちまわるような状態で行うことになっていく。

おまけに、正確な図をいくつも書かなくてはならない。それも辛い(適当なスケッチなら楽しいこともあるが)。

すべて独学でやってきたので、よりいっそう大変だったんだろう。


そういう経験があるので、その要領で、心脳の工学的構造モデルとそのシステム明細を構築しているところである。

現在わかっているデータと思考実験などを基に、推測しながらである。

心脳の工学的構造モデルとそのシステム明細は、コンピュータを参考にできる部分はありそうだが、根本的にまったく異なっていそうである。


実際、脳という生物工学的実体があるのだから、工学的にいくべきだ、という立場は有効だと考えてみてのことである。

もちろんそこからでてきた結果は要検証である。

現実どおりのモデルとシステム明細なのか確認しなくてはならない。


で、きわめて意外なことに、宗教関係の本がこういった方面の研究に役立つ。

ただし、200冊に一行くらいヒントになる個所がある、という程度である。


哲学・思想方面は、今までのところ役に立っていない。

大学時代、二人の先生に講義を受けたり話しをしたり、そのあとは哲学・思想関係の本をちらちら見てきた(ルソーの「人間不平等起源論(このタイトルは正確かどうか?)」は和訳で全部読んだが)のと、ネットでちらちら見てきている範囲でのことであるが。

ただし、稀には、哲学が、科学の有効な先導役をやったり思考原理を提供したりヒントになってきたことはいくらか知っている(易経や東洋思想もそうである)。


そのモデルとシステム明細が完成し、検証の手段のひとつとして、哲学・思想などを役立てることができるかもしれない。

ただし、その場合、そういった哲学・思想の中で、現実を記述している部分だけが使える、ということはいうまでもない、と考えてみる。


その上で、完成し検証されたそのモデルとシステム明細で、哲学方面の用語や定義、体系なども構築あるいは検証できる、と考えてみる。

私が別な論で展開している、こういった方面の可能性を追求した多種で多数の用語や定義なども、そこで確定できる、と考えてみる。


さらに、それらを多くの人が認めれば、それらが有効である、ということになると考えてみる。


検証のための装置は今のところ夢のまた夢という状況だろう。


以上、研究状況などの報告でした。




直近上と並行して、ニューロン活動やニューロンのネットワークに、どの程度の自立性・自律性があるのか、それらを統御している中枢はないのか、などについて調べてもいる。

その工学的応用として、電子回路によってある程度の情報処理ができるところにまできているということもわかった。

今のところの結論として、それらに、初歩的な自立性・自律性はある程度ありそうだ、というところに至っている、そう考えてみる。

さらに夢についても調べてみた。

かなりのことがわかってきているようだ。

「夢は脳幹の橋で発生し、右脳で形作られる(ネットから引用)」ということだそうだ。

いやはや、これはものすごいことだ。

夢に関連してまだいろいろある。

そこはきわめて興味深い界隈である。

そこから、ものすごいものがでてきそうな予感がする。

実はもう仮説が立ちはじめているのだが。

そこらも経過した結果もやはり、予想がつく。

といってももちろんそれらは仮説のようなものであって要検証である。


その先にあるものは、やはり、上の「こういった方面の研究状況などの報告」にしかない、と考えてみる。

注:この、「と考えてみる」という表現は、「いろいろ考えられるが、今はこれに着目・注目しており、それは予想や仮説のようなものであって、もちろん要検証である」、という意味である。
こう書くのは手間がかかりすぎるので、くふうして得た表現である。
これを書かないと、誤解・曲解され、バカ扱いされかねない。

注:その他にもいえることとして、表現というのは非常に難しいものである。
しかも私は、手間と時間の制約によって、イメージスケッチ、流し書き、手抜き書き、ばかりしているので、そういったことも付け加えるようにしています。






(このコラムを書くことは文章修行も兼ねているので、同じことを繰り返し書きます。新しい表現の追求もしているので。書き流しであるともいえます。そのうちにまとめるつもりです)






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(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)







(このコーナーでは、書くことを思い付かないばあいは、以前書いたことがあるのと似たようなことを、何度か記すでしょう。文章修行の一環です。あしからず)


(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)



これらのテーマは、
『*面白い着眼*なんでもどうぞ !』
となっていますが、
まじめなテーマ・内容のばあい、
「面白い」というのは、
「興味深い・注目すべき」
という意味です。
それは、このブログの過去のすべてについてもいえます。


(このブログのすべてについて、投資などにおいての参考としては無保証です)(このブログには、同じ内容を何度か書いているケースがあります)


このブログの内容は、投資判断をなすことにおいて、無保証です。


このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。
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 宇宙人がでました(?)


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